泉涌寺と皇室

釈迦如来坐像(後水尾天皇御念持仏) 釈迦如来坐像(後水尾天皇御念持仏)

 開山俊芿が泉涌寺堂塔伽藍建立の勧縁疏に後鳥羽上皇、後高倉院が賛同され資を寄せられたことは、泉涌寺と皇室の深い縁を感ずる出来事であった。俊芿示寂の後、応永18年(1411)10月には後小松天皇から「大興正法国師」の号が贈られ、享保11年(1726)2月には中御門天皇から「大円覚心照国師」の号を、さらに明治16年(1883)6月には明治天皇から「月輪大師」の号が贈られている。

 仁治3年(1242)1月、四条天皇が12才で崩御されると当山で御葬儀が行われ、御陵が開山大師御廟近くで営まれ、当山に天皇の御影や尊牌が奉安されて、皇室の御寺としての寺格が備えられた

孝明天皇御尊影 孝明天皇御尊影

  その後、応安7年(1374)1月、後光厳院をここで御火葬申してから以後九代の天皇の御火葬所となり、後水尾天皇から孝明天皇までの江戸時代の全ての天皇、皇妃の御陵もここに造営された。さらに明治維新の後は他山奉祀の歴代天皇、皇妃の菩提寺「御寺(みてら)」として尊崇されるようになる。

 このように、当山で御葬儀が行なわれ、御陵が営まれた天皇、皇妃の御念持仏、御遺品の数々が当寺へ御寄納になり、今日まで多く伝えされている。

 千百年の間、皇居の地として日本文化の中心となり、仏教のメッカともなった京都には今日なお千六百にのぼる寺院が豪壮な伽藍建築を誇っている。

 大本山といわれる大寺院も十指にのぼるなかで、東山連山三十六峯の南端、月輪山麓の清らかな涌き水のほとばしる仙境に、総本山真言宗泉涌寺派の総本山御寺泉涌寺がある。皇室の御菩堤所として特異な、格調高い法域で、寺院の東の丘陵には皇室の陵墓月輪陵(つきのわりょう)が静かに眠る聖域でもある。

 この寺院の沿革は、千百五十年前第五十三代淳和天皇の天長年間に空海(弘法大師)が、法輪寺という草庵を営なんだ事に始まり、その後第五十五代文徳天皇の斉 衝二年(855)左大臣藤原緒嗣が僧・神修のために山荘を与えて寺となし仙遊寺と称するようになった。それから三百六十年を経て、第八十四代順徳天皇の建 暦元年(1211)当時宋に渡っていた宋・月輪大師(がちりんだいし)が帰朝し、戒律復興を図り弘伝に努めたので名声大いにあがった。順徳天皇の建保六年 (1218)、大和守中原信房が深く月輪大師に帰依し、その月輪の宅地と仙遊寺の故趾をあわせて月輪大師に与えた。

 そこで月輪大師は承久元年(1219)寺院建立のために「勧進の疏」を作って、翌二年二月(1220)第八十二代後鳥羽上皇に奉った。上皇はこの趣旨に賛同され准絹(じゅんけん=通貨の代わりになる絹)壱萬匹、上皇の御兄、守貞親王(後高倉院、後堀河天皇の御父)より壱萬五千匹という多額の資金を賜わったので建築 にかかり、嘉禄二年(1226)ここに大伽藍が完成された。その時ちょうど境内に清らかな泉が涌出したので寺名を泉涌寺(せんにゅうじ)と改められた。この月輪大師をもって泉涌寺の開祖としている。完成に先立ち第八十六代後堀河天皇の貞応三年(元仁元年・1224)に勅旨によって官寺となり、勅願寺とされ た。はじめ天台・真言・禅・浄土四宗兼学の道場として発足したが、明治四十年真言宗泉涌寺派として一派を創立した。

 創建の頃月輪大師の布教、弘伝は広く国内にゆきわたり、ことに朝野の尊信が厚く、後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇、後高倉上皇(守貞親王)らのほか、大臣顕官の多くが大師に帰依し受戒された。

 皇室との特殊の縁故は、月輪大寂後(安貞元年・1227)四年を経た寛喜三年(1232)に第八十七代四条天皇として即位されたが、開山月輪大師の再来かと噂されながら僅か十二歳にして崩御された。これよりさき御父後堀河天皇は泉涌寺山内の観音寺陵に奉葬されていたが、四条天皇はこの御父の山陵と深いゆかりの泉涌寺を強くお心に止められ、月輪大師の御廟(開山堂)の近くに御自身の御陵を築くよう御遺言されたという。こうした縁故に続いて、南北朝時代の文中三年(1374)後光厳院をここに御火葬申し上げてから前後九代の天皇の御火葬所に当てられた。さらに第百八代後水尾天皇から明治天皇のお父様の孝明天皇に 至るまで歴代天皇・皇后・皇族の廟所となり、皇室の御香華院(御菩堤所)と定められた。当山のシンボル霊明殿(れいめいでん)には、歴代の御尊牌を奉祀 し、一山の僧侶によって朝夕その御冥福と国家の安泰が祈願される例となっている。そして祥月御命日には皇室の代理として宮内庁京都事務所からの参拝が行わ れる。霊明殿は正面に後西天皇の勅額「霊明」が掲げられ格調の高い雰囲気を醸し出している。

 この建物は創建以来幾たびも戦火にあい焼失したがその都度、織田信長、豊臣秀吉、徳川家綱将軍など、時の権勢によって相次いで復興された。現在の建物は明治十五年(1882)の炎上後、宮内省によって明治十七年に再建されたものである。当初、山稜に対し東面していたが、再建の際現在の西正面に変更された。霊明殿内陣の荘厳具類は明治・大 正・昭和三代の天皇・皇后御六万の増進にかかるものばかりである。

 この建物の北東に連なる御座所は、霊明殿の再建と並行して京都御所内の皇后宮の御里御殿(おさとごてん)を移建したものであり、天皇・皇后御参拝のとき御休所にあてられるほか、皇室のお使いにも供せられている。その東側に位置する海会堂(かいえどう)は歴代天皇・皇后・皇族の御念持仏(ごねんじぶつ)を奉安するところであるが、これも京都御所の御黒戸(おくろう ど=仏間)を遷した方形の塗りごめの御堂である。

 このように御寺と皇室との縁故は極めて永くまた深い。

 さらに泉涌寺内には月輪陵、後月輪陵(のちのつきのわりょう)、観音寺陵その他後記の御陵、御灰塚などがあるが全部の御陵域をあわせても五一五七平方メートル(約一六百坪)というせまい場所である。その中に天皇は九重の石塔、皇妃は無縫石塔(むほうせきとう)、親王墓は宝篋印石塔(ほうきょういんせきとう) を建てただけというまことに質素そのものである、戦国争乱のさ中、皇室衰微の際であったとはいいながら誠に恐れ多いきわみである。

 このように泉涌寺は中世以来歴代天皇御陵の地であり、御火葬、葬送のところであって皇室の尊崇最もあつく、寺格もまた他寺院と異なりその首座に列せられている。ところが明治維新の廃仏毀釈とともに従来の墓域を上地させ、宮内省の管理に移し、諸書陵(現書陵部)の所掌するところとなり、境内地のみが寺院に残された。そして明治九年尊牌、尊偽奉護料として永続年金千二百円を下賜されることになったが寺門の経営は頗る苦しく、寺宝流出などのこともあって、明治十二年責任役僧五人より恩賜の倍増と境内上地の山林を寄付されるよう、京都府知事を通じて願い出があった。御下賜金は明治十二年九月から千八百円に、また明治四十五年五月には四千二百円と順次増額され、山林の下枝の採取が承認されたのであった。そして特に経費のかさむ伽藍の補修、維持については企画、所要経費ともすべて宮内省の責任とされた。一、二の例をあげれば昭和九年一月には霊明殿の屋根葺替工事につき壱万二千七百七拾円の巨費を投じ、翌十年二月には鉄筋コンクリートの経蔵、ならびに礼拝堂の建設工事について、壱万円という当時としては莫大な費用を負担している。終戦までは概ねこのような方法によって寺の経営に参画してきたのであるが、昭和二十二年五月三日新憲法が制定されるや、国家機関としての宮内省が直接神社仏閣に資を供することを禁止されることと なったため、当寺のように壇信徒を持たない皇室一すじの寺門の維持は極めて困難な事態に追い込まれるようになった。

 ただ、わずかに天皇ご内廷の私費の下賜が唯一のよりどころであった。この時、宗教法人解脱会(当時解脱報恩感謝会)は、故会長岡野聖憲師の意志を体して、霊明殿尊儀への奉仕と御寺の維持興隆に協力することとなり、これは現在もなお継続されている。しかし、時代の変動につれて、御下賜金と解脱会の奉納金だけで御寺を維持することは、とうてい出来なくなってきた。ここにおいて寺門運営の基礎を強固にし、永続を図るために昭和四十一年三笠宮崇仁親王を総裁に仰ぎ、三井銀行故佐藤喜一郎氏を会長として広く民間篤志のもの糾合して「御寺泉涌寺を護る会」が結成され、現在ではその意志を秋篠宮文仁親王殿下を総裁に、経団連名誉会長の奥田碩(ひろし)氏を会長に、経団連常任顧問の和田龍幸(りゅうこう)氏を副会長兼会長代行とし、開創以来七百五十年の伝統と由緒をもつ、格式の高い御寺 維持のための努力が今も力強く続けられている。
元宮内庁京都事務所 所長
石川 忠